第17回西陣R倶楽部
話題提供 naeclose 店主 西 紗苗氏
日時:令和元年7月22日(月)午後7時~午後9時
場所:naeclose京都西陣ろおじ店

<会長挨拶>
皆さん今晩は。今、西さんから龍村光峯さんがお亡くなりになったとお聞きして大変なショックを受けています。龍村さんは若い頃に国際交流基金にお勤めで、日本の伝統美術をヨーロッパに紹介するために展覧会を開いておられました。1970年代の終わり頃に、光峯さんの父、2代目龍村平蔵の後を継ぐべく京都に帰ってこられて(株)龍村平蔵織物美術研究所を設立されました。
その後、今から30年位前に西陣の大黒町でシンポジウムを開催しました。弁護士の折田さんが司会で、建築家の吉村篤一さん、西陣の京町家を再生して作家活動をしていた吉原和恵さんが参加していました。その頃に町家を再生してアーティストの人に暮らしてもらうということが始まりだしました。
龍村さんにしても、私にとってもそのことは当たり前のことでした。イタリアでもフランスでも路地裏に店を構えてアーティストがアクセサリーを作ったり、絵を描いたり陶芸もしたりしていました。僕も国連の職員をしていた1993年頃に、龍村さんと「京都もだんだんそうなるよ」と語り合っていました。当時は、外国経験のある日本人からみると、京都は日本で一番可能性のある都市だから、パリやフィレンツェみたいになるだろうと思っていたのですが、周りは違っていました。何を夢物語みたいなことを言ってるんだという評価だったんです。その後、龍村さんはご自身が中心になって、日本の伝統織物の保存研究に取り組まれ、川島織物、渡文、それこそ龍村織物とも違うアーティストとしての道を貫かれました。
今、この地で西さんがこうした活動をされていることを思うとすごい縁を感じるというか、30年の時の流れは凄いなと思います。龍村さんは私より10歳年上で73歳でお亡くなりになったことになるのですが、若い西さんの様な方が、このように龍村さんの息子さん世代とちゃんと交流し展開してくれていることがすごくいいなと思って、お話を楽しみにしています。

<話題提供>
本日はお話しする機会を頂きありがとうございます。ネイクローズの西と申します。プレゼンテーション用に2008年にお店を始めたころからの資料を作りましたが、そのお話の前に、私自身を形作ってきてくれた幼少期からのお話をします。
これは父親と映っている写真です。父や母と暮らしていましたが、服装も含めて一番趣味が合うのは祖母でした。祖母が着ていたジャケットを大学生の時に着させてもらっていました。
聖母女学院という中高一貫の学校に行っていたのですが、自分は数学等の理系が好きなのに間違えて文系に入ってしまったんですね。その時は、イギリスのアーティストが大好きで、どうしても海外に行きたいという気持ちを持つようになりました。
その思いが強くなり、高校二年生の春、学校の授業料もホームステイ先の滞在費も無料という好条件の留学チャンスがあり、その留学試験にも受かり、翌年の1月にオーストラリアに飛びました。
これはオーストラリアの学校で制作した陶芸作品なのですが、アースディケイといって環境破壊というテーマで、地球がめくれているような様子をポットで作ったのですが、このとき初めて賞というものを頂きました。日本の高校でも美術部に入っていましたが一度も褒められたことがありませんでした。油絵でずっと木の根っこを描いていたら、先生に根っこだけではだめだからと言って、塗りつぶしてもう一度書き直すなど、先生との相性も良くありませんでした。オーストラシアではすごくほめてくれる先生に巡り合い、作ったものを褒められる喜びを感じました。写真で首に付けているネックレスは、私が初めてオーストラリアで作ったアクセサリーです。これは、ホストシスターがアクセサリーを作っていたので、趣味で教えてもらったもので、ネイクローズのアクセサリーの原点です。こうした活動を地元の新聞でも紹介してもらっていました。


留学から帰ってきて大学に入るのですが、その時は、日本のことが知りたいと思って、法学部に入りました。このとき、携帯電話が普及するタイミングで、メールアドレスをnaecloseとしたので、その1998年をnaecloseの始まりとさせていただいています。大学に通いながらアクセサリーも作り続けていました。その時期は、あまりけなされることなく、褒められてばかりいたのですごく調子に乗っている状態でした。今思えばつたないものばかりですが、今みたいにマルシェや手作り市でお店を出している人がいなかったので、フリーマーケットに出店すれば飛ぶように売れ、その上、お客様に喜んでもらえたのです。自分が作ったもので人が本当の笑顔を見せてくれるということを知ったこともあって、アクセサリーにだんだんと嵌っていくという感じになりました。
その後、大学を卒業する時には冷静な部分もあったのか、このままアクセサリーブランドをするとたぶん皆話を聞いてくれないだろうなと思いました。やっぱり社会に出て、ある程度働かないと通用しないなと思ってアパレルの会社に入って3年間仕事をさせてもらいました。アパレルの会社も入ったら入ったで楽しくて、正直、アクセサリーを作ることもしばらく忘れていました。ちょうど3年目くらいに会社を辞める切っ掛けもあり、2006年2月に退社して、翌3月から今日来ておられる佐野住職のお寺などのフリーマーケットや展示会場でアクセサリーの販売を始めました。この時に教室なども始めるなど、本当に手探りで仕事を進めていました。ビニールシートを地面に敷いたところから始めましたが、土埃対策で机を準備し、太陽の熱対策でパラソルを購入するなど、本当に一つ一つ失敗しながら覚えていきました。周りに教えてくれる人もいなかったし、自分も人に聞くことが好きではない性格だったので、全て自分で考えて仕事をしていました。アクセサリーに関しては調子に乗っていたので、どこに出店しても横の人に負けないぞくらいの勢いでした。知恩寺の手作り市でも何故か、ウィッグをつけてヒールを履いて出店していました。周りの人にも「話しかけるな」くらいのオーラを出していました。誰に対して頑張ろうとしているのか分からないですけれども、それぐらいの勢いで頑張っていました。この時期、もっと売っている人はいたと思いますが、知恩寺の手作り市で1日15万円位の売り上げを上げる日もありました。この時に京都市の職員さんがチラシを配っていました。今はもう無くなってしまった新風館のワゴンショップの募集チラシでした。それに応募して面接を受けて2007年10月に出展させていただくことになりました。全員お店を持ちたいと思っている10店舗が出店していました。横並びで出店していましたが、この時も絶対負けないぞという勢いでヒールで店を出していたりする日もありました。お客さんには笑顔を見せても、周りの人には笑いませんでした。話しかけられても、「話しかけないでください。お客さんとの会話の時間が奪われます」みたいな感じで仕事をしていました。仲間に60歳代や40歳代の人もおられて「そんなんいいから苗ちゃんコーヒー飲みー」とか、結構困っていた時に、「百貨店の知り合いからお弁当をもらったから、(今の主人の)彼と一緒に食べー」とか支えてもらいました。負けないぞと言いながら、実はすごく困っている状態の時に、周りの仲間の人が手を差し伸べてくれて、この時に、何かちょっと自分が恥ずかしいなと思いました。そういう事で徐々に価値観が変わってきたときでもありました。
翌年には仲間の中でお店を出す人が出てきていました。私も、たまたま新風館の近くを自転車で走っている時に見つけた店舗が富小路三条のお店でした。大学の時に三条通でお店が持てたらなというぼやっとしたイメージがあったのですが、正に目の前に私のお店だと直感したお店が見つかりました。直ぐに仲介の不動産屋さんに電話し、見せていただき、親族のサポートもあり、2008年8月8日に突貫工事でオープンしました。こちらで11年させていただいた後、京都西陣ろおじのお店に2019年3月に移転してきました。
お店の名前のnaecloseは、紗苗の苗をとって、nae(紗苗)がclose(紗苗が心をこめて作っています)という意味で大学の時に作りました。お店の名前としてちゃんと登録するときに、紗苗が近くにいるなんて誰も望んでいないかもしれないと思って調べていると、naeは古い英語でnoの意味だということが分かって、no closeで、いつも閉まりません。オープンな心でいます。アクセサリーをつけた人がオープンな心になるようにという想いで、読み方もネイクローズと変えて、こちらを表に出しています。


アクセサリーは色々な素材を使っているのですが、基本コンセプトが「今日はカッコよく居たい。明日は可愛く居たい。毎日違う女性の気持ちに寄り添って、違う自分を演出する後押しをし、それを身に付けると一歩前に出れるアクセサリー」です。そして、アクセサリー作りのインスピレーションですが、私のアクセサリーはほぼ独学でした。私のアクセサリーは私のインスピレーションを造形化したものとなっています。毎年、行ける時は海外に行って、建築物や自然。風景などから感銘を受けたものを自分で造形化しています。とりあえず、海外に行って得た刺激から受けたわくわく感や感動を形にしています。例えば、エジプトに行くとスフィンクスから受けた印象、感動などから、しばらくエジプトシリーズが出来上がります。ですので、一年に一度は海外に行って、そこからインスピレーションを受けるようにしています。日本の風景などからも刺激を受けています。
素材は、海外に買い付けに行ったりもしています。最初は、パリで買ったパーツやベネツィアで買ったパーツがメイド・イン・チャイナだったりしましたが、何度か行って、知り合いになった方に紹介してもらって、いまでは、それぞれの国の職人が目の前で作ってくれたパーツを買い付けることができるようになりました。海外にあこがれがあったので、ずっと海外に買い付けに行っていたんですが、あれっ私、今京都に住んでるな、京都には沢山職人さんがいるんとちゃうかなと思ったのがきっかけとなって、ご縁いただき金糸の職人さんを紹介していただきまして、金銀糸などの京素材を使ったアクセサリーを2009年位からはじめました。最近は結構、伝統的な素材を使っており、コラボレーションがすごく増えてきています。初めは、伝統的な素材を提供していただける方が少なくて、ご縁でつながった職人さんの工房、工場にお伺いして、拝見したり体験したりして自分が感動したことをお客様にお話をしたりしています。
この頃に、やりたいことが一杯あるのにそれを表現する技術を学んでいないことに気付き、店を1ケ月ほったらかしてヨーロッパに勉強に行きました。パリのオートクチュールの職人さんが勉強に行っているところやイギリスに行ったりして、自分に再投資をしました。その技術を日本に持ち帰り、日本の素材と組み合わせてアクセサリーを作るということを繰り返していました。この頃に気付いたのは、高級な素材を使ったアクセサリーを作ると、それなりの値段になるので、なかなか一般の方に買ってもらえないことです。かといって、アクセサリーの価値を下げたくないし、自分のアクセサリーにわくわくしてもらうだけでなく、日本の職人さんから自分が受け取ったわくわく感をもっと知ってもらいたい。身に付けてもらいたいという事を実現するためにワークショップを実施しました。そうすると価格の高い素材でも、量が知れているので、お客様には2千円とか3千円とかの価格で提供できます。今は、このワークショップが人気で、修学旅行の方にもお仕事を頂き、若い方に知っていただくきっかけになっているので、良い形ができているなと思っています。
さらに、自分のアクセサリーを発表し、日本の伝統工芸の職人さんを紹介していることを一生懸命、百貨店の方に話したら、百貨店の方からその職人さんを連れてきて欲しいというオファーがありました。それで、職人さんを何人か集めて、百貨店で企画展をさせていただく機会を沢山いただきました。そのうち、ただ職人さんを集めるだけでは面白くないので、「おとずきんちゃん」という頭が独楽になっていて手にリンゴを持っているキャラクターを作って「おとぎ話にわくわくする」をテーマに実施したりしました。まず「何、これ」と思って貰って、近づいてきていただき見ていただくという仕掛けにしました。いわゆる工芸展とはずいぶんと趣が違います。売上というよりは、何か楽しい思いを伝えられたらなという想いでやっていました。今は、アクセサリーを販売するとか紹介するということを越えて、イベントをやってと言われることが増えてきました。その時は、アクセサリー以外にオブジェを作ったりしています。月のイベントをしたときには、直径1メートルくらいの月をワイヤーで作ったり、ジャパンセンシーズというテーマで新しい日本の要素を入れるという百貨店の伝統工芸イベントでワイヤーの蝶々もスクモレザーという青く染めた皮とのコラボで作ったりしていました。なお、ちなみにイベントとは関係なくこの巨大なワイヤーのハンバーガーは私が作りたいから作りました。
かつて個展をした時に、それがキッカケで、新風館の閉館イベントで大きなワイヤーのオブジェを作る機会を頂くなど、お仕事としてアート作品の発表の場もいただきました。しかしだいたいお仕事でいただいても、したい事の気持ちがあふれ、予算は材料費で消えてしまい、制作時、いつも学校の教え子や友人知人がボランティアで手伝ってくれたりしています。最近は海外でもイベントで発表する機会を頂くようになりました。台湾の百貨店でのイベントやイギリスでのワークショップなどです。


昨年、病気をしたことをきっかけにこちらの京都西陣ろおじに移転してきました。今まで、お声がかかると全てやりますと言って、イベントなどなんでも受けていたのですが、お店がおろそかになっていたように思います。やりたいなという事が多すぎて、やりすぎて身体がまいって病気をして、もっとゆっくりすべきかなと思った時に、この店と出会いました。お店のコンセプトも、日本の伝統を紹介したいとなっていたので、ここで、やりたいことは全部できるではないかと思い、今までの百貨店でのイベントを控えめにしています。
こちらの物件にはプレゼン資料を作って応募しました。
もう一つ、私はよくスナックのママみたいと言われることがあって、昔、スナックのママのイベントもしたことがあります。「スナック さなえ」というイベントをしたり…無料ですが!今は、西陣ろおじでお宿もあって、海外の方も良く宿泊されるので、自分が10代の時に得た英語力を使って接遇をすることができ、偽ママのようなこともさせてもらっています。そういう意味では、生まれてから蓄積してきた私の全てが、ここ西陣ろおじで生かせているなと思っています。まだ、移転してから間がありませんが、これからは、ママ業をしつつ、ワークショップも、伝統工芸の職人さんとのコラボイベントもと色々と欲張りに考えています。今週末には錦織の龍村光峯さんとのコラボイベントを予定しています。宗田先生もおっしゃっていましたように、龍村さんは凄い作家さんなのですが、仕事でつながるというよりか、私がわくわくして興味を持ち、これは何ですかと尋ねたことから仲良くさせてもらっていて、作品だけでなく人としても紹介したいと思う作家さんです。
気を張って、誰にも頼るか、誰にも話を聞かないで自分だけでやるぞとやってきた時期もあるのですが、結局、色々な方に支えていただいて、ご縁もいただいて今日があります。自分が塞いでいる時は何も来ないのですが、少しでも開くと色々なお話が来たり、ご縁と出会ったりします。龍村さんとの出会いもその一つです。まだまだその立場ではありませんが、これからは少しでも誰かのために恩返しのようなことができたらいいなと思っています。
端折りながらですが、以上で私のお話とさせていただきます(拍手)。

<意見交換>
寺田)前のお店のあった三条富小路は、いわゆる繁華な場所でステイタスもあります。そこで10年を超えてお店をされてこられたかたが、こちらに来られました。病気が切っ掛けになったとおっしゃいましたが、普通は、もっと店舗規模を拡大したり、店舗数を増やしたりすると思うのですが、西陣ろおじに移転したその心は何だったのでしょうか。
西)2008年に三条富小路にお店を出したときは、町中でも個人商店が一杯ありました。それが、徐々に時代の流れなのか、近年世界的なブランドが出店されてきました、そうしたブランドに対して負けないぞという思いがあって、有名百貨店出展し、次は海外、と外向きばかりになっていました。ふと気付くと、お店のお客さんがすごく減っていました。それで、お客さんを無視して外ばっかり向いている自分が嫌になってきていたのですが、立地はすごく良くて「富小路三条でお店をしている」というと「すごいね」と言われることも嬉しくもありました。手作り市から始めて、自信がない中で「すごいね」と言われることが仕事を続けて行く支えになっていたのです。それが、年と共にそんなことはどうでも良くなってきていました。なんか移転したいなと思いつつも切っ掛けが無くてという状況が続いていました。大家さんとも仲良くさせてもらっていたこともあり、離れたくない気持ちもあり続けていました。次の移転先としても町家が良くて町家を探していましたが、忙しくもあり、価格面などでも適当なものが見つかりませんでした。そういう中で、1か月病気で入院していた時に「少し冷静に考えようかな」という気になって退院して再び探し始めた途端に見つかったのが西陣ろおじだったのです。大変きれいな町家で、値段も格安で、住居にも近い、それで連絡しようと思ったら、フラットエージェンシーやん、吉田社長、知っているので連絡しようととんとん拍子でした。次の日に連れて行ってもらえて、もうこれは私の店だ。となり、10年もいた店を去る決断をいたしました。

吉田)西さんから連絡が来た時には、是非、入居いただきたいという思いでした。宿泊施設もあり、カフェも経営していただけるということで、私どもからしても願ったりかなったりでした。実は3件のお申し出がありましたが、宿泊者やご近所の方にもっともふさわしい業態をご提案いただいたのは西さんでした。
寺田)西陣ろおじは西さんのために作ったような施設ですね。
西)しかも、ここの住所は東西俵屋町で、大家さんが東さんで私が西です。もう、私のところですという気持ちになりました。また、知り合いの全員に「なんで、わざわざそんなところに移転するのか」と聞かれますけれども、来ていただいた方全員に「これは正解やな。来るべきところやったね」と言っていただけるので、ものすごく嬉しいことです。

宗田)フリーメタリコというのはどういう技術なのですか。
西)フリーメタリコは、イタリアの素材で、伸縮性のある金属素材です。銅線にシルバーの特殊コーティングをしてあり、洗濯をしても色が変わりにくいという素材なんです。講師をし始めたときはフリーメタリコの講座を担当していました。未だに見たことが無いと言われる方が多い素材です。
宗田)さっき、新風館のオブジェを見せていただきましたが、あれもそうですか。
西)あれは、アルミのワイヤーです。
宗田)ハンバーガーのオブジェはどうですか。
西)ハンバーガーはアルミとフリーメタリコの両方を使っています。フリーメタリコは3,000円/mと高価な素材でして、ハンバーガーは材料費だけで10数万円かかっています。あれを見てもらいたくて、カフェで展示した時には、来場者にはドリンクにもれなくハンバーグを無料で提供しました。色も30色ぐらいあって、耐候性の高い素材で外に出していても大丈夫なのです。
宗田)パンフレットを拝見すると結構な受賞歴がありますよね。アクセサリー作家としては成功している方という評価なのでしょうね。
西)アクセサリーで頂いた賞というよりも、JC(日本青年会議所)の人間力大賞を頂いているように、日本の伝統工芸を海外に紹介することでいただいたりしているものも含まれています。
宗田)私も新風館のチャレンジショップの審査員をしていましたが、あそこからここまで成長されている方がいることは知りませんでした。
西)昨日も、あの時の同期の方がお店に来てくださったりしてお付き合いがあります。2008年に富小路三条にお店をオープンした年に、その年の商業起業家10人の一人に選出され、助成金をいただいたこともありました。
宗田)新風館の中でもワゴンショップを経て2階、3階にお店を構えたりする人もおられましたね。
西)私も大学生の頃から新風館は大好きな場所で、ここでワゴンショップを出せることはすごくうれしい事でした。そして、10年後に閉館イベントをするときにも3か月だけお店を出させてもらいました。私にとって、色々な新しいことを発信させてもらう場所でした。
宗田)最初の館長が渡辺さんという方で、あの方の時に、この西陣R倶楽部の副会長をしている大島祥子さんが「三条まちあかり」という夜のライトアップをやったりしていました。佐野さんの妙蓮寺で手作り市に出されていたのはいつごろですか。
西)この頃です。2006年位ですね。
佐野)ワゴンショップを出される少し前です。ワゴンショップをしておられたころは、百万遍で手作り市に出しておられて、私がお邪魔した時には店におられなくて会えませんでした。
宗田)そういう意味では、当時から西陣と縁があったのですね。
西)そういえばそうですが、恥ずかしながら、当時は自分が西陣に来ていることすらわかっていない状況でした。本当に、気付けばかなり前よりご縁がありました。
佐野)新風館の閉館イベントで作成されたワイヤーのオブジェは今、どこにあるのですか。
西)今保管していて、あれから一旦解体して、アルミの部分は蝶々に姿を変えた後、月の先品に生まれ変わって、今も家に残っています。
佐野)これは雨にぬれても大丈夫なのですか。
西)アルミは大丈夫です。
佐野)この作品が残っていたら妙蓮寺に展示したいと思っていたのですが。
西)それでしたら、バラバラにはなっていますが素材自身は残っています。新風館でのライトアップは沢山の方に協力いただき、例えば証明の方にはアルミのワイヤーの中に入れて、心臓のように点いたり消えたりするようにしていただきました。
佐野)この間、妙蓮寺で春に特別展をしましたが、今度は秋、11月16日から12月8日までやるんですよ。今回は西陣で丸ごと美術館といって、10ケ寺が一緒にやるんです。野外展示とか室内展示の様々なアート作品を展示します。妙蓮寺にも5人のアーティストからの応募があります。それで、どういうものを展示しようかと検討中なんです。西さんの作品は野外が面白いなと思っています。
西)この新風館の作品は鎖網になっていて、実は鎖網はご縁を意味しています。来館された方とか関係する人全員に作ってもらうイベントで、鎖状にしたものを花の形にしました。真ん中のところに小っちゃいボール状にしたワイヤーが入っていますが、これも来場した子供達に全部作ってもらいました。私は、作品ができた瞬間に満足してしまうのですが、この作品を使った時に手伝ってくれた学生さんたちは泣いてたりして、そのことがすごくうれしかった記憶があります。そういう事はしたいなと思います。誰かの思い出とか何かのきっかけになれば良いなという思いでオブジェなどの作品は作っています。

宗田)西さんの作品は、手づくり市のレベルではないですよね。完全にアーティストの世界に行っています。
西)私は、屋根が無い地べたの手作り市から始めて、ほこりが立つから机を設け、雨が降るからテントを準備したり、めっちゃ暑い露店から店舗でクーラーのある幸せなど、一つ一つ経験しながら学んできました。私のスタッフに若い人がいますが、そういう事を経験してもらいたくて、昨年から手作り市にも出店したりしています。ですから、自分的には手作り市の時と何も変わっていないスタンスで仕事をしています。
宗田)そうなんだろうけど、かなり、化けたというか出世をしましたよね。
西)全然出世できていないですよ、色々恩返し…リアルなものもまだ返せていないですからね(笑い)。

横山)今でも、ワークショップはされているのですか。どのようなことをされるのですか。
西)はい、しています。ここのカフェとか、大阪で長くやっているところとかでやっています。ブレスレットの体験教室とか、組紐に見えないような素材を新しく作ってもらって、ワイヤーを中に入れたたオリジナルの素材を使ったアクセサリーとか、フリーメタリコを使ったアクセサリーなど何でもやっていました。沢山ありすぎて訳が分からなくなってきたので、最近はこれをしますと最初に決めてやるようにしています。

宗田)ブレスレットとかネックレスなどアクセサリーは、細かいところの技術の差が良く出ますよね。イタリアなどにも良いデザインのアクセサリーがありますが、最後の詰めが甘くてすぐに壊れたりとかすぐ外れたりするのが多いんだけれど、日本で作るアクセサリーは作りがしっかりとしていますよね。
西)生徒さんも人それぞれで、きっちりつくられる方もいたり、そうでない方もいます。すごくまじめな人はきっちり完成させたいという人には厳しく指導します。相手によって教え方は変えています。私は、数を作っていく中で、負けず嫌いで人に指摘されるのも嫌なので、めっちゃ練習しました。手作り市に出す前には3日徹夜したりしていました。その後、これではだめだと思って、習いに行くことにしたのです。フリーメタリコの資格を国内で初めて取るために習いに行ったのはそのためでした。習いに行ったら、私が5年かかったことが5分で分かったりしました。だから、私の場合はずいぶんと遠回りして、失敗もたくさんしてきました。そのおかげで、生徒さんがどこで躓いているか良く分かります。5年の遠回りの経験からどうやったら良くなるかも良く分かります。
宗田)さりげなく言われていますけれど、ずいぶんとご苦労されてきているのですね。人に聞けばよいことを聞かないで、自分で体得してきているから身に尽きますよね。
西)今は、素直に人のいう事を聞けるので、「はー、なるほど」と思うことが沢山あります。経営に関しては本当に何も知らなくて、家賃を払わなければいけないのが自分だということすら知らない状況で始めました。明日、家賃を払わなければいけないことを前日に知って、翌日、入金があることもわかっていないという状況でした。最初にお店を持った嬉しさで、希望する人がいたらアルバイトを5人くらい一気に雇ったり。おいでおいでと軽く言っていましたが、大変なことになりました。2年目に、やることが無くて一時期昼ドラを見ていたんです。オーナーと呼ばれる響きに酔っていました。

寺田)自分で、一人で解決してきてある程度成功すると、たいていの人はワンマンになりますが、西さんの場合は、逆にだんだんと謙虚になってこられている。これは、何がそうさせたのでしょうか。
西)まあ、死ぬしかないというくらいの時にやっと謙虚さを知りました。ワゴンショップの時からいつも私の隣に私と全くタイプの異なる今の主人がついていてくれましたが、誰にも助けを求めずに苦労している時も、のほほんとして、妖精のように飛んでくれていて支えてくれていました。変な見栄を捨てた時に、謙虚さを知ったのですかね。
最初、ヒールにウィッグの時代は、人に負けられないという思いだけで生きていました。ネイクローズの西さんと誰も言ってくれなくて、人から認められたいという思うけれども認められないという葛藤が強かったです。それがあるとき、「ネイクローズの西さんですよね」と言われた瞬間にその呪縛が解けました。自分から認められたいと思わなくても、気付いたら、自分が思っているよりも自分をよく言ってくれる人がいてくれて「えっ。そんなに良くないですよ」と言えるようになりました。学校の先生も5年ほどさせてもらっていますが、「そんなに先生と呼ばないで欲しい。まだまだ先生として認められる人間ではない」と思った瞬間に、変わりました。

宗田)京都デザイン専門学校は、いつからやっておられるのですか。
西)お店を始めて2年目の2010年位からです。幼稚園の時に先生になりたかったので人形を並べて先生ごっこをしていた記憶がありました。そして、あるときインターンシップに来ていた専門学校の生徒さんが卒業してアルバイトに来てくれていたときに、卒業生の就職先ということで専門学校の広報の方が来られました。その人に、ふと「先生にはどうやったらなれるんですかね」と聞いたら「興味ありますか」と言われて、次の年にたまに関わらせていただくことから始まりました。実は、オープンキャンパスからでもよかったら来てくださいと言われて、集客したら先生になれるんではないかと思ってがんばったら、6人のコースが20人くらいになったんです。西先生のオープンキャンパスを受けてこの学校に決めましたと生徒に言ってもらえた事もあったからか、それが理由かは分かりませんが、次の年から先生のお仕事をいただく事になりました。
宗田)教えたい、習いたい、作りたい、買いたい、身に付けたいという気持ちはすごく近い距離にあるんでしょうね。
西)それまでは、自分が身に付けた知識は誰にも教えたくなかったんです。先生をやってみたら、10代の子たちが、それこそ昔の私のようにヒールを履いて「お前らには負けるか。かかってこい」という勢いかとおもったら、皆、可愛い子たちでした。ですから、「何でもどうぞ」と私の技術、知識を提供することに何の抵抗も無くなっていました。未だに、初年度に教えた子たちは、時折機会があれば、手伝ってくれたりしています。
宗田)さすがに、西さんの実力がここまで来ると、そう簡単にマネできるものではないですからね。
西)最初はマネされる怖さがあったので、写真なども載せたくなかったんですけれど、最近は、同じものを作ってもその人から出るものが違うということがやっとわかってきました。だから、学生も下手とか上手いとかではなくて、自分が出ているかどうかで評価しています。

寺田)まだまだ、お話は尽きませんが、残りは交流会でお話を頂ければと思います。交流会は表のカフェで行いますので、お急ぎでない方は是非、ご参加ください。最後に、感謝の気持ちを込めて西さんに拍手をお願いします(拍手)。