第15回西陣R倶楽部
第15回西陣R倶楽部
話題提供 アトリエ翠々 主宰 加藤 弥生氏
日時:平成31年5月20日(月)午後7時~午後9時10分
場所:TAMARIBA
<会長挨拶>
お天気が悪い中、お集まりいただきありがとうございます。皆さんとこういう取り組みが継続できることをうれしく思っています。先日、久しぶりに小川通御池下るの「まゆ」という京染の体験をさせてくれる工房を訪ねました。ご主人の西村さんとお話をすると、「始めてから20年になる」という事でした。あのエリアは元々は染の町で三条通から北は城巽学区で南は本能学区ですが、すっかり変わってしまいました。昔からの悉皆屋さんとか引き染め屋さんといった友禅の様々な業種も少なくなってしまいました。室町の呉服の商売は、昔のように大きくなることはありませんが、宮崎友禅斎が始めた着物を作るというデザインの仕事は、永遠に続いていて、もっともっと発展していく可能性があります。20世紀の成功、栄光を再びということではなく、新しい可能性を着物というかデザインの世界に感じているのが今日の状況です。そういう意味で、今日の加藤さんのお話を期待したいと思います。こうした新しい動きが西陣、上七軒の地で興るということは楽しみなことですし、今日を機会にこれから良いお仕事をされていくことを見守りたいと思います。
<話題提供>
始めまして、アトリエ翠々の加藤弥生と申します。職人仕事をしておりまして人前でしゃべることはとても苦手ですので、途中であがって話せなくなりましたらお助けください。
今日は、皆さんの貴重なお時間を頂きましたので、限られた時間の中で皆様にご興味を持っていただけるようなお話ができたらと思っています。
私が、今、住まわせてもらっている上七軒という町で、手描き友禅の職人仕事をしているということには、色々な切り口があります。伝統工芸の振興という側面であったり、地域の活性化とう側面などですが、先細り産業と言われている糸偏産業の中での新しい取組とはどういう事なのか、自分がこの町で実践していることで何か生かしていけることがあるのか、アドバイスを頂きながら一緒に考えていけたら大変にうれしく思います。
これが私が工房としている小さな京町家です。元々は芸妓さんがお一人で住んでおられた住居でした。大変に老朽化し、柱は傾き、虫が湧くような家でしたので、昔の土間など町家としての特徴は残しながら、職人仕事をするのに都合の良い快適な空間に改修いたしました。台所は土間のママとしておりますが割烹ではありません。普段はこうした生地を架け渡して図案から描く手描き友禅の仕事をしています。我が家の二軒隣は元々、図案家さんがお一人で住まわれていました。「昭和の京都」という写真集に出てきているのですけれども、職住一体の職人がこうした小さな京町家に住みながら仕事をしていくという暮らしが普通であった時代が昭和の初めの頃まであったらしいのですね。今は、そうした職人も減りましたし、上七軒の路地中にあっても空き家といえばゲストハウスになっているのが最近の傾向です。そうした中で、私が仕事を続けていくことをこの地域の皆さんが気持ちよく受け入れていただいたので、今もこの仕事を続けさせてもらっています。
手描き友禅の工程をさっとお話しさせていただきます。京都では染の分業制が細かく出来上がっています。(手描きの図案、糊置きした生地、出来上がった帯、糊を絞り出す道具(口金)等を見せながら説明)例えば、こうした図案は図案家さんが描いて、それを生地に写してから、宮崎友禅斎が発明した糸目糊を引きます。糸目糊置きは、染料を交わらなくして繊細な絵画的な表現を可能にするための工程です。私は、元々東京の友禅工房で師事していましたが10年前に師匠が急死したときに、京都の工房に呼ばれてそれからのご縁で仕事を続けています。京都に来て初めて知ったのですが、東京と京都の友禅の仕事の形態が違います。東京は、行政が守ってくれなかったので、職人が自立して販路開拓から図案、糸目糊置き、色挿し、引き初め、仕上げまで全部一人の職人がやらざるを得ませんでした。そこが分業制が進んだ京都の友禅染との大きな違いでした。今、糸偏産業がすごく縮小されている中で、分業制は余り時代のニーズに合わなくなってきています。そうした中で一人の職人が全行程担うという量産しないスタイルが今の時代に合う形だったんだと思います。それで、何とか仕事をさせてもらっています。
これは風呂敷なのですが、この図案を自分で描きまして、この最終製品となるまで一人で仕上げます。
元々は日本画の絵描きになりたかったので絵を描くことは苦になりません。京都に来て一番苦労したことは、この土地で初めて見知った流通システムとそれが時代の変遷で崩壊しつつある様子を目の当たりにし、自分を呼んでくれた師匠の分までの販路を素人の私が開拓することを余儀なくされ、淡々と絵を描いていればよかった東京の様にはいかなかったということでした。その中で、今、住んでいるところに合う仕事の進め方を自分なりに模索していましたら、手描き友禅の職人仕事と同時に、着付けの教室をするようになりました。(染帯を見ながら)これは染帯なのですが、この色の付いてない白い線が糸目糊を置いたところです。最初に図案を描いて、それを生地に写し、洋菓子のクリームの絞り出しのような糸目糊置きの道具の中に糊状のワックスを入れて、そのワックスを絞り出して線状に置いていきます。そのことによって、色が隣に滲まなくなり、絵画的な染物が可能になります。それまでは、糸染めの絞りですとか型染というものしか着物の模様の表現方法がありませんでした。宮崎友禅斎によって日本画を描くような染の表現が可能になりました。今でも美大を卒業してから私たちの業界に入ってくる人がおられますけれども、独立して事業として成り立つようにしていくには難しいところもあります。
そこで、自分なりに考えたことは、職人仕事の他に、観光まではいかないのですが、上七軒の立地を生かしたエンターテインメント性のある企画を自分で考えてみたり、地方からのお客様に来ていただけるような取組を自分で工夫しています。例えば、この北大路界隈なら大徳寺さんとの関わりなど、その地域毎の特色を生かした形で観光を絡めた職人仕事ができるところが沢山あるのではないかと、自転車で走りながら思ったりしています。
これは今住んでいる京町家の改修前の写真です。これをセルフリノベーションで少しずつ手を加えて、お客様が来られた時に工房を見て楽しめるような内装に変えて行って、2年半が経過しました。ここは上七軒という場所で芸妓さん舞妓さんたちがお一人で住まわれている地域なんですけれども、そういった地域の特色を生かしながら、昨年から上七軒の商店会に加わって、まちおこし的なことのアイデアを出しながら、職人仕事だけではない人を呼べる方法を考えさせてもらっています。これは上七軒盆踊りです。毎年8月11日に芸妓さん、舞妓さんたちと一緒に盆踊りをします。時々、見せるための工房がありますが、アトリエ翠々では、実際に仕事をしている場所ですけれども見ていただくこともできるという工房にしています。今、問屋さんなどがどんどんと廃業している中で、昔は表に出ない職人仕事だったのですが、自分たちも外に出て、個人事業主の真似事をさせてもらうことが必要な時代になってきました。東京時代に身に付けた、一から十まで自分で何でもするというスタイルが今の時代に合っているようです。これからは、分業制で働いていらした京都の職人さんたちも外に出ていくことも含めて、新しい形を考えて行かれるのではないかと思います。若い世代の方のお話を聞いていますと、既に実践されています。京都は観光の要素に恵まれていますので、色々な切り口があるのではないかなと思っています。
私からお話しすることは以上ですが、質問という形で引き出していただくと大変に嬉しいです。ありがとうございました。(拍手)
<意見交換>
寺田)デザインから仕上げまで全てお一人で仕事をするという東京友禅のスタイルを京都でも続けておられます。京都の職人さんに同じことを要求してもなかなか難しいのかなと思います。京都の分業制は内職も含めて京都の町全体に広がっており、大量に質の良いものを染めていくことができます。それに比べて、加藤さんは、お客様のお一人お一人に合わせながら、ご自身の感性とお客様の感性が交差する中で作品を作り上げることができます。
宗田)日本画を志していて、東京友禅と出会った契機とはなんですか?
加藤)日本画は厳しい世界で、描いて売れるということはほとんどありません。でも、着物は描くと売れてしまうのです。(少し笑いをとろうとして発した答えのはずが。。。)
宗田)それは、京都では当たり前のことで。そもそも岡崎友禅斎は扇の絵師でした。扇に花鳥風月を描いてる人が着物で表現しようとしたわけです。例えば、人間国宝だった森口華弘さんは、京都市立芸大で油絵を学んだ後、日本画に転向して友禅作家になりました。京都では手描き友禅の作家になることは日本画家になるよりもよっぽどステイタスの高いことだったので、売れるとか売れないとかで画家か作家かを選択することではありませんでした。加藤さんが作家としてやりたいことがここにあったと素直に言わないのは何故なんでしょうか。
加藤)何と言ったらいいんでしょうか。自分の中に不純な動機があったような気がして。。そこで何か自信たっぷりに言い切るようなことには抵抗を感じてしまうのです。
本当はファインアートだけで食べていくことが自分の中では理想の姿だったのです。でも、それが叶わないと知って、何かの形で絵を描く仕事をしたいと模索していた時に、着物は絵画的な表現ができることを知りまして、自分なりの表現手段として友禅染色を選んだのですが、それが自分の思うところの作家像と少し差異を感じてきました。それと照れくさがりという性格から、あまり自分を前に出したがりません。
宗田)京都ではファインアートとしての日本画家もいますが、着物の絵を描く作家さんも偉い人です。人間国宝ですからね。もちろん、京都市立芸大の日本画の先生たちも一杯いますけどね。
加藤)工芸とファインアートがかなり近くに共存しているということは京都に来て初めて知りました。
宗田)京都ではファインアートと工芸は同等かむしろ工芸の方が評価されています。東京の師匠の元では何年ぐらいお仕事をされたのですか?
加藤)実質、10年ほどですが、弟子入りしてしばらくは弟子として認めてもらえませんでした。
宗田)弟子として認めてもらうまでにどんなご苦労がありましたか。
加藤)絵を描きたくて弟子入りしたので、そういう意味では苦労とは思いませんでした。師匠自身が徒弟制で修業された方で、先生にとっては弟子は中学を卒業したくらいの年若い時分から修業し、自分が教えたことを忠実にしてくれる者でなければならないという考えの方でした。それで、私のようにいい歳をした大人が、自分の教えたことをちゃんとやってくれるのかという不信感を持たれていたように思います。
宗田)美大を出てきたようなお嬢さんがこの仕事をやれるのかと思われたのでしょうね。仕事場は、谷中とか浅草の界隈ですか?
加藤)落合にありました。
宗田)新宿寄りの割と下町的なところですよね。それで、京都に来られたご縁は?
加藤)師匠が亡くなって行先を探していましたら、京都の衣笠でお仕事をされていた今の先生に「給料は出せないけど京都に来ないか」と声を掛けていただいきました。
宗田)もう、その時には一人前になっていたのですか?
加藤)即戦力として呼ばれたと考えています。育てるというのではなく、一緒に商品が作れる人間が欲しかったのだと思います。それで、京都に来てみたら先生ご自身が疲れておられて、昔のように何でも売れるという時代ではなくなって、お客さんもどんどんと亡くなっておられました。気が付いたら自分が販路を見つけてきたり、東京からお客さんを引っ張ってくるなどだんだんと本来の目的とは違うことをするようになってをやるようになっていました。結果的には良い経験になったのですが、最初は正直、戸惑いました。そうした仕事に時間をとられて腕がなまってしまうのではないかと、絵が描けなくなるのではないかと一人で悩んだりもしました。
宗田)真面目な方なんですね。
加藤)(苦笑)そんなことで、京都に来てまる十年になります。
宗田)悉皆屋という言葉をご存知ですか?加藤さんがおやりになっていることは、お客さんに寄り添いながらお客様が本当に望まれ、お似合いになる着物をプロデュースする悉皆屋のような役割をなさっておられるんですよね。
加藤)今の先生の先々代が西陣の織り屋をしておられた関係で、羅織ですとか特殊な技術を持つ職人さんにデザインをお願いして、お客さんと直接つながって織物を作っていただくというような仕事もさせてもらっています。
宗田)それは、面白い仕事だと思いません?
加藤)しゃべるのが苦手なので職人仕事をしているような人間でしたので、実はプロデュースのような仕事をすることは苦痛でした。
宗田)高い着物を買うお客さんからすれば、別に饒舌にしゃべってもらうことは求めておられるわけではないですよね。営業トークが欲しいわけではなくて、自分で描ける人、自分でデザインできる人の方が任せてみようという気になりますよね。
加藤)そういうお客様が少しずつ増えてきているのでありがたいことだと思っています。
宗田)自信を持って進めていかれれば良いと思いますよ。ところで、何故、上七軒に拠点を置かれたのですか。
加藤)やはり、京都の先生の引き合わせです。先生が、同級生の皆さんと良く上七軒で飲んでおられるお店がありました。私は東京から来ましたので、ここが花街だという事すら知らないで、仕事場の近くで飲み屋さんが一杯あるところぐらいの認識しかなく。そしたら、仕事帰りに何処に行くかを心配してくださった先生が、ご自身が昔から懇意にしてきたお店を紹介してくださいました。そこが、たまたま上七軒の商店会の人達の寄り合い所的小料理屋さんだったことから、自然と上七軒のお話を聴くことになり、これもまた、たまたま話の中で出た物件をご紹介いただきました。興味を持ってその家を見に参りましたら、これが京町家特有の細長い造りでしたので、帯地くらいでしたら引き染めできる長さがありまして、最低10年以上は住まうというという条件の元、改装許可いただきまして、ここを自分の仕事場とすることに決めた次第です。
宗田)伝統でも新しいもので本当にモノづくりをやりたい若い人たちに集まって住んでもらいたいというのがこの西陣R倶楽部の目的であり活動です。そして、ここにお集まりの方々はお仕事もバラバラなのです。お商売としてやっておられる方もおられるし、アートやクラフトとしてやっておられる方もいらっしゃいます。その人たちは、産地としての西陣を取り戻そうとしているわけではない、本当に良いものを、丁寧に作って提供していきたいと思っている人たちばかりです。加藤さんは、今後、どうされるつもりですか。
加藤)今日、呼んでいただいたことであらためて自分を振り返ってみましたところ、当初は特に目的など何も持たないまま来てしまったことに気付きました。もちろん友禅に関わる仕事をしようとは思っていましたが、まさか自分で工房を主宰しようなんて思っていなかったんですね。東京の先生が急死してしまった時に衣笠の先生に呼ばれて来ちゃったという、至って自主性の無い椰子の実みたいな漂流物だった、というのが正直なところです。ただ絵を描きたかっただけなので、それだけなんです。 その時々置かれた環境の中で自分でできることをやっていたら自然と今の状況になっています。用意周到に準備して上七軒に来たわけではなく、また知ってたら怖くて入れなかったと思いますが。 ここに来て生活することで初めて経験することの一つ一つがとても面白かったので、いつしか自分の視点で様々な事を見つける楽しみを覚えました。 今では観光地ということを生かしながら、伝統工芸の仕事場を人に見せながら、自分もそこで仕事をするという事を日常生活の一環のようにしています。ある時「昭和の京都」という写真集を見たときに、自分が今やっていることを昔の人もやっていたんだなと初めて自覚しました。ちょうど1年位前のことなんですけれども、その時から始めて意識的にその写真集にあった職住一体型の工房に住まいながら友禅染色を自分が続けていこうと意識するようになりました。これからということでお答えするのであれば、なるべく昭和の初めにあった形を残し、伝統工芸の技術を残しながらも時代に合った図案もそうですし、お客様のニーズに直接お応えするという事も含めて、職住一体の生活を続けていきたいと思っています。
宗田)絵の話に戻りますが、加藤さんが絵を描きたい理由は何ですか。子供の頃から絵が好きだった理由は何だと思われていますか。絵が得意だったのですか。
加藤)女の子なのに言葉の発達がすごく遅い子供でした。それでも感情はありますから、何か表現しようとするときに、言葉でしゃべる代わりに絵を描いていました。私にとって絵を描くことは自己表現として必要な手段でした。
宗田)もしかしたら加藤さんは天才かもしれませんね。だって、ピカソがそうでしょう。彼も言葉で表現するのが苦手だったから絵を描いたというのは有名な話です。レオナルド・ダ・ヴィンチも確か、そうだったですよね。絵の才能を持っている人に共通する傾向かも知れませんね。
加藤)人間は、自分にとって必要じゃないことはそんなに積極的にしないものですし、また同時に、自分にとって自然で当たり前のことはわざわざ誇示しないものだと思います。 私自身はお喋りが下手だったので、しょうがなく絵を描いていたというところがあります。それでも大人になるにつけ社会性を身に付けて人と普通に会話できていますけれども。今でも実は文章を書いたり絵を描いている方が気が楽だというところがあります。
宗田)ここは、そういう人ばっかりですよね。ご安心ください。
加藤)自分のそういった特性を上手に生かせる場所を与えていただいたということはありがたいことだなと思っています。どうもありがとうございます。
森)加藤さんにはいつもお世話になっています。私は綴れ織りという織物を織っている職人をしている森と申します。加藤弥生さんとは前からの知り合いでして、加藤さんは友禅の帯を作られていて、私は織物で帯を作っています。今後、一緒のお仕事をさせていただけるような機会もあったりします。着物全体を見られる目としては弥生さんの方がお仕事の性格上もキャリアの面でも一つ上を行っておられるので、勉強させてもらいながらやっています。先ほどもおっしゃったように、職人が前に出てお客様と直接関わってモノを作っていくということは、今後、織物の方でも重要になってくるんじゃないかなと私も思っています。これからもよろしくお願いします。
寺田)加藤さんのfacebookは、今、加藤さんが仰ったことが如実に表現されています。職人と観光をクロスさせながらお客様の満足度を最大化しているようにお見受けしています。
いわゆる観光ビジネスとは違い、本物の京都をじっくりと堪能していただきながらその延長に加藤さんの作品があるという感じをうけます。どうやって、そういうスタイルを身につけられたのでしょうか。
宗田)facebookで表現されている世界は大変にクオリティが高いですよ。身に着けておられるお召も、その背景も人物も素晴らしいです。皆さんもご覧ください。
加藤)自分自身が遊び好きというか、鴨川をピクニックしたり、山に登って山椒の実を取ってきたりしていました。そうして採取した植物でお料理を作っては一人で楽しんでいました。また、元々食に興味が強い方でしたので、お料理屋さんも自分で見つけてきて一人飲みを楽しんだり、いつの間にか増えてきたお友達とも楽しんでいます。親戚縁者も誰もいない自ら旅行ですら来たことも無かった見知らぬ土地に突然仕事でお声かけいただいて来てしまった椰子の実でしたのですが、今となってはそれで良かったと思います。何の先入観も偏見もないフラットな自分視点でいられるから。それでも、一人では寂しいので、お客様にも「一緒にご飯食べに行きませんか」とか「ピクニックに行くのですがご一緒にどうですか」などとお誘いをするようになりました。ちなみにこの界隈でしたら北大路通りにフレンチお惣菜のお店で食事を調達して、バスケットと敷布を持って一緒に自転車で鴨川に行ったりしますが、そんな普通の事が観光ガイドブックなどにはない面白さと喜んでくれる方もおられます。京都は自然が身近で、自然物と人工物のバランスがとても良いというところも町の魅力だと思っています。この10年間で自分が楽しいな、ここは良いなと思ったところを誰かと共有しようと思ったことが今日に繋がっています。
宗田)今、facebookで拝見した絵の色の置き方が、我々がなじんでいる手描き友禅のグラデュエーションの付け方と色調が少し違っていて、少し洋画っぽいというか写実的というかバロック的なというか、独特の作風をお持ちですよね。
加藤)私自身は自覚していないのですが、そういう風に見えるのでしたら、母方が祖父の代まで教会の神父をしており、小さい時からステンドグラスなどになじんでいたり、母親がピアノ専攻でしたので音楽もクラシック一辺倒だったりと、どちらかというと西洋の文化になじんできたからかなと思います。
宗田)やっぱり。花への光のあたり方の表現が洋画のような雰囲気がありました。
加藤)そういっていただいたことは初めてです。今の着物ユーザーの方々も洋服文化になれているので、昔の好みの色彩と少し変わってきているようには思います。それで、私の絵が皆様のお好みに合うのかもしれません。
宗田)京染とか和装の世界の方々は洋物との対比をすごく意識されます。私自身、建築をやりながら和食文化研究センターのセンター長も担当しており、菊乃井の村田さんや木乃婦さんのような大変に著名な京料理の料理人さんたちとお付き合いし勉強させてもらっていると、和食にオリーブオイルやフォアグラを使うなどかなり果敢にチャレンジされています。それが、和の世界にきちんと収まってすごく奥行きが出てきます。京都は和と洋を上手に合わせることで、新しい可能性が広がってくる、あるいは新しい芸術的な境地が広がると言っても良いかもしれません。
北林)いやー、すごいなと思って聞いていました。これは聞き流していただいて結構なのですが、絵を描くのが好きだったら、表現が着物じゃなくても良いのかなと思います。着物もあるでしょうし、着物以外もあるのかなと思います。着物以外の表現手段を考えたりされないのですか。宗田先生のお話を聞きながら、確かに特徴的な絵だなと僕も思いました。
加藤)正直なことを言うと、着物で商売をしたくて着物の世界に入ったわけではなくて、絵を描きたくて着物を始めたというところがあります。それがたまたま続いているという状況でして、もう少し違う形で絵の表現をする機会があったらなと常々、心の中では思っています。
北林)この四月にミラノに行っていました。この3年ほど、毎年ミラノに行って色々とやっているのですが、今年、急に和柄が増えました。何故だろうなと思って聞いていたら、「オリエンタルが流行っているんだよ」みたいなことを言っているんです。はっきり言って、世界の中では日本なんて誰も見ていません。日本に居ると外国人がめちゃくちゃ来ているんで「なんか人気だよね」と思ったり、テレビの番組で変に洗脳されたりしていますが、海外に行くと日本は中国と一緒だと思われています。僕らが中央ヨーロッパの国々がどのような配置になっているのか良く分からないのと同じで、日本なんてそれぐらいの存在なのだなと痛感していますが、和柄は凄く使われています。やっぱり、自然を取り入れるという風潮が世界的に来ているのかなと思っています。それは、織物もありますけれど、印刷なんですね。高い製品は織物なんですが、安いといってもそこそこ高いのですが、着物以外にもインテリアでも和柄のプリントのブームが来ています。プリントだったら、それこそ日本のスキャニングの技術は世界でもトップですので、日本の柄をスキャンしてデータだけ向こうに送るという商売をされている人がいっぱいいます。だから、視点をちょっと変えれば、アウトプットが着物だけじゃなくても良いのでは思います。着物に拘りがあるのであれば着物で良いのですが、お話を聞いていると絵が好きなのだということがすごく伝わってきましたし、発信も色々とされているようです。であれば、着物は斜陽産業でもありますし、アウトプットが着物「も」あるというスタイルにされても良いのかなと思いました。世界を見渡すと色々とあるんだなということに気付いたものの意見です。
加藤)西洋との対比ということでいうと、洋服と和服には大きな違いがあると思っています。どちらも生地に柄がありますが、洋服の場合はそのフォルムが大事です。一枚の布を人間の体に合わせて立体的に裁断し縫製します。和服の場合は、同じ寸法の幅の一枚の布を使って、人間がその布に自分の体を寄り添わせていきます。自然を人間に従わせる西洋の思想と、人間が自然に寄り添っていく日本の思想という根本的なところが違っているからだと思っています。最初は着物に絵を描きながら色々な迷いがあったのですが、実践していく中で、今申し上げたようなことに気が付きました。そして、現代的なアート表現の手法として使えるのではないかと思うようになりました。先ほど仰ったようにプリントで和柄はいくらでもできるのですが、アイデアは人間にしか出せないものだと思います。西洋と日本人的な考え方の対比を表現するツールとして、こうした伝統的な技法を使う着物をアート作品として表現する方法は何かないかなということを真面目に考えています。
北林)今、ヨーロッパでファインアートの世界にトライする取り組みもしている中で得られた知見をフィードバックできるとすれば、まず、日常で使うものにしてはいけないということです。日常で使うものにすると人間世界に落ちてきて、値段の0が2つ取れてしまいます。そういう意味では日本のやり方はかなりガラパゴスなので、日本、日本と言っても誰も相手にしてくれないということを痛感しているところです。その辺はかなり大変だなと思います。こういう交流の中から色々な組み合わせができると良いなと思います。一人でやると大変なのでチームでやることができればなと思います。
加藤)西洋ではアートと工芸がはっきりと分かれていると思います。工芸は職人が作るものでアートはアーティストが作るもので、扱い方も全く違っています。でも、京都の場合は、伝統工芸がアート作品より上の位置づけにあると認識されていて、他の国にはない特徴だと思います。
北林)僕もそこは大好きなところなのですが、現実の西洋のファインアートの世界にそれを評価する仕組みがないことが課題となっています。そこがすごく悩んでいるところです。個人的には好きで、いいなと思いながら、向こうでそれを説明した時にだれも理解しないという現実があります。
宗田)僕、イタリアに長く住んでいたのですが、フィレンチェでルネサンスが生まれた時には、ダ・ヴィンチもミケランジェロもラファエロも皆、ボッテイカといわれる職人の工房で働いていました。ヴェロッキオなどの工房にレオナルド・ダ・ヴィンチが入って一緒に有名な洗礼の絵を描いたらあまりにもうまく描けていて、「お前はうちの工房では使えない。出ていけ」と言われたわけです。それはバザーリの列伝に出てくる話ですが、あの時に皆気付くわけですよ、職人というのは材料費プラス手間賃で仕事を収める人、その職人の中のアルティスタになると、アルテ(技)だけで材料費など問題にならない、二桁違う価格で仕事が取れるようになります。だから、ミケランジェロに仕事を頼むときは、その絵の大きさに合わせて価格が決まるという世界をはるかに超えて、気が向いたら描いてもらえる言い値の世界になります。「〇億円ですか、わかりました。ぜひよろしくお願いします」ということになります。これがアートの世界です。だから、職人の世界とアートとは繋がっているのです。ずーと職人的な仕事をしてきた人が、あるときポンと出てきて、お客が〇億円出しても良いと思った瞬間にアーティストになるという、すごく割り切った世界です。だから、誰でもチャンスがあります。だからフェラーリを作っていようが、スカーフを作っていようが、あるとき突然、化けてアーティストになるというのは分かっていただけると思います。先ほど申し上げた人間国宝の森口さんなどは、そもそも絵描きからスタートしてヨーロッパまで留学して帰ってきた人なんだけれど、職人修行の世界を全部飛ばしているんですね。近いところでいえば、樂吉衛門さんは、東京芸術大学に進学されて、彫刻やってイタリアに留学して帰ってきて茶碗を作り始めた人です。ただの茶碗屋ではないのです。
北林)まさにおっしゃるとおりで、世界のそういう仕組みをなんとなくではなくちゃんと分かって飛び越えていく手段というのはあるのはあるのですが、自ら職人ですと自己紹介した瞬間に0が低い世界に位置付けられてしまいます。だから、例えば僕が気を付けているのはハグされるときに、ジャケットの生地の良し悪しを見られているなという気がするくらい、階層が明確に分かれているというところです。立ち居振る舞いやそういう事も含めて全部見られています。だから技はもちろん大事です、技さえ良ければ売れるだろうということにはならない世界が広がっています。
宗田)当然のようにハッタリが無いとだめですね。
北林)日本の職人さんは一生かけて技を磨くのにものすごく集中されています。その人がハッタリも含めてプレゼンテーションを上手にすることなどは難しいので、職人さん一人ではなくチームでやっていくことが良いのかなと思っているところです。飛び越え方はだいぶ分かってきましたので。
宗田)一つ引っかかることがあります。チームとおっしゃいましたが、職人さんがチームを組むことは結構、難しいのではないかと思っています。職人さんが分業制になったのは戦後なんです。戦後、着物がすごく売れる時期があって、京朋の大江さんという人が付け下げを発明されたんですね。すごく売れるから分業にしていきました。付け下げが一番極端で、訪問着のように一反全部に絵を描いていたら大変い手間とお金がかかりますが、分業制を取り入れた付け下げの手間は1/3で済みます。それでも、売値は訪問着と変わらないという儲かる仕組みを発明したのです。大量生産大量消費のマーケットがあったから分業が成り立ったのです。T型フォードの自動車生産と同じことです。今、人口減少の時代ですから、物を作っても売れないのです。薄利多売のビジネスモデルは人口が伸びないと成り立たないのです。今は、高利小売の時代です。そのかわり、利益率はめちゃくちゃ高いというビジネスモデルしか伸びない時代になっています。それをやっている人たちが京都でも生き残っているわけで、料理屋さんなんかまさにそうです。この料理で5万円は凄いけれども、それだけの価値はあると思わせる。皆さん、そういう状況を目指すわけですよね。だから、分業している職人ではなく、アーティストがチームを作らないとダメなんです。
北林)そうです。プロデューサーとか、代わりに英語でプレゼンテーションしてくれる人なども含めてチームと考えています。分業というモノづくりの意味のチームではなく、一人一人は独立しているけれども、まとまってチームとして力を発揮するようなイメージです。
宗田)チームの全員がスターでなければ成り立ちませんね。
北林)そういう言う感じですね。そういうチームの要素が京都には既に存在していると思います。ただ、組み合わさっていないだけなんです。プロデュースしていく人が居ればうまく回ると思います。
宗田)それを北林さんがプロデュースしようとしているわけですか。
北林)いやいや、僕は着物の世界はまだまだ勉強不足です。
宗田)だから、着物を止めて、絵を描けとおっしゃっておられる(笑い)。
北林)まあ、一つの参考意見としてお聞きいただければと思います。
寺田)貴重なご意見の数々、ありがとうございました。最後に大きな拍手で加藤さんに感謝したいと思います(拍手)。
<報告 マルモザイコ 外村まゆみ氏>
「モザイクが動いた ―旧京都商工会議所の床モザイクのその後―」
マルモザイコの外村です。2月の西陣R倶楽部の時に、旧京都商工会議所の床モザイクのご紹介をしました。京都新聞にも紹介されましたが、これが干支を表した大理石の床モザイクです。当時は京都商工会議所にモザイクの譲渡申請書を提出しようとしていたところで、その後も移設先を探して色々な人にお声を掛けましたが、いまだに見つかっていません。石屋さんからは、百数十万円という撤去の見積りが出て困ったので、京都新聞さんに記事にしていただいたのですが、3月に入っても移設先が見つかりませんでした。受け渡しの期限が3月28日と聞いていたので、私があきらめたらこのモザイクは無くなってしまうと思い、撤去の工事に掛かることにしました。
これは、このモザイクの作家の矢橋六郎の実家である矢橋大理石商店に始まる矢橋大理石株式会社の大阪支社の方と撤去の見積り相談をしている時の写真です。ご覧いただいて分かるように、椅子やテーブルでほとんど全体像が見えなくなっていました。
保存撤去しようとしていましたが、バラバラになる可能性もありましたので、撤去工事の前にモザイクを手作業で写し取る作業をしました。
工事初日に矢橋大理石さんに来ていただいて、猿のモザイクを布で覆って膠で止めてからカッターを入れました。途中で、石屋さんが「バラバラになりそうや」とおっしゃったので、現場を離れて色々な人に相談をしていたのですが、そうしている間に、石屋さんから「モザイクは塊として一体化している」という連絡が入って、以降は順調に取り外し工事が進みました。
石屋さんのコストは高いので、モザイクを割ることなく取り出せることが分かってからは、知り合いに声を掛けて集まってもらって安く仕上げることにしました。さらに、真ん中の円盤は、直径1.5メートルあるので、知り合いの庭師にも来てもらって、ドリルを使いながら、何とか割れることなく取り外すことができました。結局、12支と真ん中の円盤の全てを割れることなく取り外すことができました。
保存先を色々と探しましたが、結局、上京区の会社の社長さんが自社の倉庫で保存することを引き受けていただき、運搬のための軽トラなども手配していただきました。
今、一部を京都府の陶板名画の庭で展示していますが、残りはその倉庫に保管していただいています。
陶板名画の庭での展示は、一体化して展示しやすい状態の真ん中の円盤と東西南北の4つの干支に留めています。展示期間中に展示保存していただける移設先を探すために展示期間は5か月間と比較的長期の展示をお願いしました。ありえないことが起こったという意味を込めて「モザイクが動いた」というチラシを作成して、引き受け手を募集しています。
矢橋六郎先生の作品は名古屋の中日ビルや大垣市役所などでは保存されています。文化首都の京都でも壊されることなく何とか保存する準備ができたということになりますが、その費用はクラウドファンディングで集めている最中です。皆さん協力をお願いします。クラウドファンディングのリターンとしては、6月15日に陶板名画の庭を特別に開けていただいて、工事中や旧京都商工会議所で使われていた時の様子の3D映像を夜に投影するイベントにご招待します。
4月20日には京都新聞で「モザイク救出」という記事が掲載され、これをネット配信で見られた東京の方が、支援したいとわざわざ京都まで来ていただき、お力を頂いています。ただ、支援者の多くは京都以外の方ですので、京都の人にもご理解とご協力を頂けたらなと思っています。
4月21日には、京都盲学校の生徒さんたちと一緒に作ったモザイクの小屋とベンチの展示を京都歴彩館で開催している様子を京都新聞に取り上げていただいきました。宗田先生に9月22日にギャラリートークを行っていただきますので、是非お越しください。
先ほどの搬出と保管をお願いしている社長が開設している上京区のビロード美術館でもモザイクのトークを行いますので、よかったらお越しください。
貴重なお時間をありがとうございました。
<閉会>