久我神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)権禰宜 有島昌延氏

久我神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社で、上賀茂神社の神職が社務所に起居しながらご奉仕されている。

久我神社は、延喜式神名帳(約千年前に作られた国がおまつりする神社の台帳)に記載されている古社である。旧大宮通りの玄以通を下がったところに鎮座し、うっそうとした大木に囲まれ神聖な気に包まれている。

【由緒】

久我神社の御祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)である。その昔、神武天皇が九州から東征されたときに、紀伊国(和歌山県)の熊野の山中で道に迷い、敵軍の攻撃を受けたときに、大きな烏(八咫烏)に出会う。夢のお告げに従って、この八咫烏の案内で進軍するとついに大和を平定することができて、今日の日本の基を作られた。

この時、八咫烏となって道案内されたのが御祭神の賀茂建角身命であり、その功により山背国(京都地方)を賜る。命は一族を率いて、この国に移り、賀茂川の上流の久我の地に住まわれ、山背国の開発に尽力することとなる。

後に、命(みこと)の御功績を讃えて久我神社が造営される。当神社をこの処に鎮祭したのは命の墳墓があったと伝わるが明らかではない。古くは大宮と称えられ、その前の道は大宮通りと呼ばれた。当時、一帯にあった森を大宮の森と呼んでいたが、現在では、久我神社と大宮交通公園にしか名残を留めていない。

 

【賀茂別雷神社(上賀茂神社)と久我神社の神話】

久我神社の御祭神である賀茂建角身命の娘である賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)が、賀茂川の上流で身を清めておられるときに、上流から丹塗矢が流れてきた。その矢を丁重に扱い床に祀りお休みになられたところ、矢に籠っていた不思議な力によってご懐妊され、立派な御子をお産みになられた。

その御子が元服を迎えられたときに、祖父であり、一族の長である賀茂建角身命が七日七夜の祝宴を開く。祝宴の席で、賀茂建角身命が御子に「父と思う神に盃をすすめなさい」と言って盃を渡すと、御子は「わが父は天津神(あまつかみ)なり」と言って、盃を天井に投げ、甍を破って雷鳴とともに天に昇ってしまわれる。

残された賀茂建角身命と賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと願っていたある夜、賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ「諸々の尊い品々と葵桂を飾って祭れ」との御神託に従って神迎えの祭をしたところ、立派な成人の御姿となり、天より神として神山にご降臨されたと伝わる。この御子神が上賀茂神社の御祭神の賀茂別雷大神であり、神山の麓でお祀りをしたことが上賀茂神社の起源であるとされる。その後、7世紀に山背国が現在の地に社を造営し、桓武天皇によって、平安京の守り神として位置づけられる。

つまり、久我神社の御祭神で山背国の賀茂氏の始祖である賀茂建角身命の娘の御子で天から降臨した賀茂別雷大神を御祭神としているのが賀茂別雷神社(上賀茂神社)である。

 

【御神徳・御祭り】

御祭神が八咫烏となって神武天皇の道案内をされたことから、航空安全、交通安全の守り神として広く信仰され、近隣四十三ケ町の氏神として崇敬されている。

4月と11月の1日には、本社である上賀茂神社より宮司以下祭員及び神馬が参り例祭を奉仕する。9月1日には八朔祭として、夕方に氏子が沢山の灯明を神前に捧げ、農作物の虫よけのお祭りを行う。11月1日から3日にかけて秋祭が行われ、3日間御御輿が拝殿に安置され、3日には、氏子域四十三ケ町(北は御園橋通、東は新町通、南は北山通の辺り、西は紫竹西通の辺り)を神籏・錦御旗を先頭に立派な御神輿が巡行する。

 

 

【境内】

本殿、拝殿は寛永5年(1628年)に造り替えられており、本殿の屋根は檜皮葺きの流造(ながれづくり)となっている。

また、長元9年(1036年)の後一条天皇の命により上賀茂神社と同様に21年毎の式年遷宮が執り行われ、平成29年に本殿、令和元年に拝殿の屋根の葺き替えを行っている。式年遷宮は、同じ材料、同じ工法で同じ形に造り替えるとされているので、1000年前と同じ姿をしていることになる(京都府暫定登録文化財指定)。そして氏子総代は35名から年々減少傾向にあり、現在25名となっている。今後、ご協力いただける方を増やしていかなければならない。

境内一帯は京都市の史跡となっている。かつて京都には3つの森があったとされる。「糺の森」「藤の森」そしてこの「大宮の森」である。当時の森の一部をいまだに残しているということで史跡に指定されている。ご神木として、幹回り約5メートルの欅の木があり、道行く人の目印となっていた。しかし、平成元年に、雷や腐朽などにより、地上2メートルくらいのところで切って、根の始末もして今の姿となっているが、変わらず注連縄を張ってご神木としている。

掃除や草引きなど日常的な維持管理は神職が担当している。お祭りの前などに、総代会や婦人会の方々が清掃奉仕を行う。

社務所も昭和天皇の御大典の際に普請された建物を下賜されたものとのこと。

末永く氏神として人々に崇敬されることが望まれる。

店名

久我神社

名前

賀茂別雷神社(上賀茂神社)権禰宜 有島昌延

住所

京都市北区紫竹下竹殿町47番地

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