第10回 西陣R倶楽部 活動報告

第10回西陣R倶楽部

話題提供 漆芸舎 平安堂 清川廣樹氏

日時:平成30年12月17日(月)午後7時~午後9時10分

場所:TAMARIBA

<大島副会長挨拶>

今日は、清川さんの修復師としてのお話をお伺いするわけですけれども、近年、今あるものを長く大事に使おうという動きが改めて見直されているように思います。京町家などを始めとする住宅の分野もそうですが、私の身の回りでも主婦や男性の方が金継ぎの教室に行って、昔から伝わっている普通の茶碗なんだけれども、修復して使っているんだという話を聞くようになりました。モノを通じても物語を紡いでいくという動きが、大量生産大量消費の時代を経て、振り子が揺れて戻ってきたようだと感じております。最近では海外の方が清川さんの技術に対してアンテナを高くして修復を依頼されるだけでなく、教室に通っておられるとお聞きしています。モノを思い出とともに大切にしていくということは、全世界的な潮流なのかもしれないなと感じています。今日は、そういった現場のお話もお聞きできるものと楽しみにしています。

 

<話題提供>

ざっくばらんにお話を進めていきたいと思います。途中でもよいので質問してください。

僕は、18歳の時から、丁稚見習いという形で仕事を習い始めました。そして、今年の11月に世界8か国の方が僕の工房に来られ時に、ほとんどの方が技法だけでなく私がどうやって仕事を覚えたかということを盛んに質問されていたことが印象的でした。技術的なことより、昔の徒弟制度に興味があるように思いました。ロンドンの美術大学の修復科の学科長さんが来られた時もそうでした。日本の職人の見て覚える、つらい思いをしながら覚えたことの良さということに関心を持っていただいているように思います。教科書だけで、机の上だけで100点満点を目指すという現代の教育に対する反省があるように思います。そのことも含めてお話をさせていただきます。

今日は、スライドとテレビ東京で今年8月に放映された動画をご覧いただきながらお話を進めたいと思います。この放送にはいまだに反響がありまして、不登校のお子さんが会いに来ていただいたりしており、僕が思っていた以上に日本のモノづくりに大きな関心が戻ってきているのかなと思います。

僕は元々、文化財の修復の現場の職人でした。外して持って帰れる部材は各職人さんの工房に持っていきますが、柱や長押など建物自体の修復は、北海道から九州までその現場に行って、そこで修復作業を行います。ですから、その現場々々の状況が異なるので、これが正解という技法がありません。一つ一つの現場が違う現場で、同じ建築でも、お寺の北側と南側とでは傷み具合が異なります。それに対して、漆や顔料をどのように使うと耐久性能が同等になるという工夫は現場でないと学べません。一般の職人さんは、自分の工房で仕事をしますので自分の仕事の仕方に拘りがあります。僕たちのようにその現場で仕事をする職人は、その建築物やそれを取り囲む自然状況などと対話しながら、昔の職人さんが200年、300年前にどういう工法でどのような修復を行っていたかということが教科書となります。この40年間、文化庁や大きな会社のもとで仕事をしてきましたが、何よりも前提となるのが納期と予算です。僕自身は、40歳代の半ばから、この納期と予算を優先することが大きなジレンマとなりました。例えば、工期が残り3か月となったが、工程は5工程残っているという状況の時にどちらを優先するかというと、当然のように納期を優先します。そのとき、200年前の職人さんの工法を100年、200年先に伝えるバトン役という僕の仕事が果たせなくなることがどうしても許せなくなりました。今の組織の中では仕方ないことだと思いますが、落慶法要の日が決まっていたら、その日に来られる何千人という人のためには納期は守らなければなりません。

それで、一般のお客様の要望にお応えすることを仕事の中心にして、本来の工法、先人が作り上げた日本の工法というのは実はこういうことだったのですよという仕事をするために、大徳寺門前の今の工房を開きました。どちらが良し悪しということではなく、本当の仕事を知らせてあげることで使い分けすることができる日本人になって欲しいということが一番の望みです。

今、日光東照宮の修復が完成間近ということなのですが、私の工房に来られるお客様が東照宮に行って来られて、どう見てもおかしい。お猿さんも元のお猿さんと違うのではないか。そういうお声はよく聞きます。これは、定められた工期の中で致し方なく仕上げたという仕事になったのではないかと推測しています。これが将来に伝わることの辛さということを常に感じています。

金閣寺の昭和の大修理に際しては、僕はまだ、見習い中の見習いだったので、金箔の張り手には入れなかったのですが、金箔の選定には参加させていただきました。何万枚もの金箔を一枚ずつ光に透かして、傷の有無や穴の大きい小さいを4種類ぐらいに分けます。本来、金箔は余分に準備するものですが、作業が上手くいってなくて、上に何度も何度も張り重ねてしまい、一切、あまりが出ませんでした。これは、日本人の漆を扱う技術力が何十年も前から落ちてきているという証です。それは、修復作業の一番大事なところが少しずつ失われていっているからだと思っています。僕自身は、一般のお客様と一緒に洛中で、修復の技術を少しずつでも鍛えていこうという思いで仕事をさせてもらっています。

まずは、漆の紀元についてお話します。一番古い漆製品で残存しているのは、1万2千年前の木の櫛で漆でコーティングされたもので、国宝展などで展示されることもあります。その次に、北日本で発見されている縄文時代の土器で4千年前のものがあります。その当時から赤い漆と黒い漆を使い分けしていました。さらに、当時から修理をしていたことが分かっています。そして、使われている材料も現代と同じで、漆と山の土です。漆と山の土を混ぜたものをパテとして、欠けた部分に肉づけをしていきます。

その原料となる漆ですが、植えてから10年から15年になる漆の木から採取します。漆の木に傷を入れて、漆が自らの体を守るために出す樹液を採取します。けれども、この日本の漆は、日本国内で使用する漆の2%しか取れません。そのほとんどは、文化庁と宮内庁が買い上げています。残りの98%は中国やベトナムの漆なのです。その違いは、漆の採取方法によります。漆の木に傷をつけて漆を採取することを漆を掻くといいますが、日本の漆の搔き方は「殺し搔き」といいます。小さな傷をつけて、少し間をおいてもう少し長い傷をつけ、徐々に傷の長さを伸ばしていき、一気に漆の木から漆を採取し、採取し終わると漆の木は生命を終了させてしまいます。それに対して、外国の漆は「養生搔き」という方法で採取します。優しく傷をつけて、漆の木を長持ちさせながら採取します。その差が歴然としています。漆に傷をつけて、あまり空気に触れないうちに直ぐに掻きとります。少しずつ、傷の大きさを大きくして、樹液を出す力を活性化させながら、半年かけて、樹液を取りつくします。漆の木にとっては残酷ではあるんですが、こうすることで漆は強い漆を出してきます。接着力、光沢が良く、寿命の長い漆を採取できます。その漆が100年持つのか、200年、300年持つのか、この採取方法によって変わってきます。外国の「養生掻き」の場合は、日本のように深い傷を入れないで、擦り傷程度の傷を入れて、薄い漆を採取します。だから、漆の木の命は守れるのですが、樹液の質としては強くありません。そうした中国産の漆も、昨年までは文化財の修復にも使われていましたが、今年からやっと、日本産の漆を推奨するということになりました。急に言い出したため、日本の漆の価格は跳ね上がり、取り合いになっています。日本全体の需要を賄えるわけがないのです。そういう方針を出すのであれば、15年前から漆の木の植林と漆搔きの職人の養成に取り組んでからやって欲しかったというのが、職人としての私の意見です。せっかく安定していた漆の値段が、非常に高騰しています。

漆の木、1本から採取できる漆は大体、コップ1杯半くらいです。こうした漆の森が明治の中期ごろまでは日本中に点在していました。日本列島の至る所に漆の森があって、その周りには地元の漆を扱う職人さんが住み、切磋琢磨しながら今の日本文化を育ててきました。そして、何故、日本が、こうした独特の漆の使い方が出来てきたかというと多神教であったということが大きな理由であると思っています。山の神をはじめ万物に神が宿り、漆には漆の神が存在するという感覚の下で一滴の漆を大切に使う。大切に使うということは長く使ってあげることで、命と引き換えにいただいた一滴を大切に末長く使うということが、漆の世界だけでなく、日本の様々な職人の世界に共通する考え方ではないかと思います。

そして、島国であったがゆえに、侵略したり侵略されたりということが近代までなかったので、自然と真正面から向きあってきました。日本の文様というのはすべて自然の文様を写してきたものです。大陸の文化は、いつも後ろを振り返りながら大丈夫かなと思いながら仕事をしてきたので、繊細な部分が欠けているように思います。遠くから少し離れて見る文化なのかなと思います。作品に近づいて細部を見てすごいなと思えるのは日本の文化なのかなと思います。蒔絵とか織物にしてもそうなのだけど、繊細さというのは農耕民族であるがゆえに、時間をかけて真正面から自然と対峙する中で生まれてきた日本の文化だと思います。さらに、島国であったと同時に四季の恵みをいただいている地理的環境にあったことも日本文化を育ててきた要因だと思います。春夏秋冬の四季の恵みをいただいている島国であったということが日本文化の形成に大きな役割を果たしていると思います。

これが、現在、残っている金継ぎの重要文化財です。こうしたものが、将来にわたって漆が継承されていくことを証明しています。そして、漆工芸の教室をしながら、皆さんに漆の技術を伝えると同時に、漆の情報発信のお手伝いをしていただいています。

最後に15分だけ、テレビ番組の動画をご覧いただきます。全国から寄せられた様々な器の修復の取組やイタリアの工芸作家が私の工房を訪ねていただいた時の様子を中心に、金継ぎなどの漆による修復技術の紹介や漆の採取方法などを収録していただいています。そして、この動画は「漆芸舎 平安堂」のホームページで見ることができます。

元々の漆の樹液の色は、このような透明感のある黄土色をしています。米粉を炊いたものを漆と混ぜて強力な接着剤として使用します。これは縄文時代から使用され、今でも同じ製法で作っています。それから、欠けた部分を埋めるパテにあたるものとして、山科で取れる砥の粉と漆の樹液を混ぜて漆粘土をつくります。これを錆漆といいます。江戸時代には、接着力のあるものとして膠とかフノリを使用されるようになりました。膠は魚、牛、鹿、豚などの動物の骨の接着力を利用したもので、海草の接着力を利用するものがフノリです。膠は顔料と混ぜることで、日本画の絵具として利用します。それよりも数千年前から漆は接着剤として利用されてきたのです。

近年、自動運転の車やリニアなど科学技術の進歩は目覚ましいものがありますが、その一方で、日本人が数千年の時間をかけて独特の日本文化を形成してきたものが少しずつ消え去ろうとしているということを皆さんに確認していただいて、その良し悪しではなく、使い分けをしていただきたいと考えています。99%は先端の科学技術を利用していただくとしても、たとえ1%でも日本人の魂のようなものをこうした文化で残していきたいと思っています。様々な伝統的な技能や技術にかかわる人たちがおられますので、漆の世界だけではなく、視点を変えてご議論していただきたいと思っています。今日は、私のお話を聞いていただきありがとうございました。

 

<意見交換>

大島)今日は、ありがとうございました。神社仏閣など建造物の修復もされていたわけですが、それらは完全に元の姿に戻すという修復になるのでしょうか?

清川)漆でも300年経過すると角質化して粉みたいになってきます。割れやひびが入ってきます。それを修理するのが修復ですが、中の建築部材を守るための修復なのです。彫刻であれ、柱・梁であれ、自然素材でコーティングすることによって、部材を難百年も何千年も保護しているという役目を果たしています。僕たちにとっては、きれいに金箔を張るというのは、近年の話で、部材を長らく維持していくことが修復で一番大切なことです。元通りに戻すのではなく、中にある職人さんが手掛けた部材を長らく保存するコーティングとしての作業をしています。

大島)他の国では古代のものとかは修復するにしても、当時の材料や技術がない、もしくは分からないからあえて修復したところを分かるように直しているところもあると思いま す。そういう意味では日本の場合はまだ技術があるのかなと思ったのですが、そういう発想ではないということなのでしょうか?

清川)そうですね、修復の基本は部材の保護ということです。その修復の方法に、古びた風合いのまま修復する場合と、真新しくする場合の2種類あります。重要文化財の場合は、どこを修復したのか分からないように、修復しない部分との調和に留意します。一度、綺麗に表面を加工して、その後、お寺の天井裏の底のほうのゴミを取ってきて、それを膠や漆で付着させて、古びさせてやるという古色仕上げを行いこともあります。それは、施主の意向次第です。

大島)一方で、今日、お話しいただいた金継ぎなどを例にとりますと、単なる修復ではなく、清川さんの見立てが入っているのかなと思いました。

清川)そうですね、少し、感性のようなものを入れさせていただいています。

大島)そのあたりの感性や技術は、どのように習得されるのでしょうか?

清川)1軒のお寺を修復する際に、江戸時代の職人さんの工法を確認すると同時に、プラスアルファのアイデアのようなものを発見したりします。また、裏の部分に職人さんの落書きを発見したりします。ものづくりを通じて自分の何かを残したいという思いが、何時の時代の職人さんにもあったのだと思います。その表れが、一つのデザインとなって評価していただいているかと思います。

寺田)例として、金閣寺と日光東照宮の修復のご紹介をいただきましたが、銀閣寺も修復の際に大きな議論がありました。元々は、群青の漆が塗られていたので、そうすべきだという意見と、今のようなワビサビの世界で行くべきだという意見に分かれました。そういう場合に清川さんのようなお立場の方はどちらを支持しされるものなのでしょうか?

清川)それは、非常に難しい質問なのです。どんな修復でもそうですが、800年経っても1000年経っても、その当時にかかわった人たちの思いというのは大きく左右しています。だから、江戸時代に修復されたものが果たして、本当に元通りの修復だったのかどうかということは定かではないのです。元々、こうだったけれども、修復した際の施主のお殿様がこうしろというと、そのようになります。それは、日本の歴史の中で、いろいろな動きがあります。時代時代で、銀閣寺側がどういう状況であったかということは、良く分からないのです。例えば、創建から十年後に、その施主の意向で漆を塗っていたかもしれないのです。その辺は何が正しいのかは言い切れないのです。近年、修復の監督をされている方々は、あまりにも漆のことだとか文化財のことをご存じない方が多くなっているようにお見受けしています。そこが、文化財修復に際しての大きな弱点となっているように思います。どのような修復に際しても職人さんたちを使いこなせるプロデューサーというかクリエーターの様な監督さんに早く出てきて欲しいと思います。それで、全てが収まるのではないでしょうか。

寺田)町家等の改修をしていましても、痕跡を見つけて原型がどうだったのかということを探るということを最初に行います。ああでもない、こうでもないといいながら調査を行います。松坂屋の京都本店がホテルに建て替わる際にも、表構えだけは、木造で再現してほしいということをお願いしました。明治中期の創建以降、何度も表構えが変遷してきたことが写真資料で残っていまして、どの時代に戻すかということが議論になりましたが、結局、創建当時に戻すことになり、解体直前の姿とはずいぶんと異なることになりました。今、清川さんがお話になったように、修復の際に誰がどのような考え方でその修復を良しとするのかということが大切であるということを実感しました。それから、文化財修復においても納期があって、職人が納得いかなくても、納期を優先するというお話は、衝撃的でした。さすがに文化財修復においては徹底的にやるんだろうと思っていました。その辺りの裏話をお聞かせいただけますでしょうか?

清川)思い出したように耐震偽装問題が発生しますが、現場の職人さんはすべてわかっているはずなのです。本当はここまでやらなければならないけど、現場監督さんは、監督さんの立場、それを管理する部長さんは部長さんの立場、それを運営する会社は会社の立場、それを発注した国の立場。立場の戦いというか、そこを何とか変えていただかないと、それはずっと続くと思います。自分が文化財修復から一般の皆さんの大切にされているものの修復をしようということに気持ちが変わっていった要因も同じような話す。あるお寺のお厨子の中の仏像を直接触る仕事があって、剥がれかけているところを全部剥いで、そこを修復する仕事でした。現場で、ずっと仕事をしていました。お空殿を足で踏みつけて、皆さんが何百年も崇拝してきた仏像を素手で触るわけです。その時、一寸、後ろを見ると檀家の方が、阿弥陀さんに手を合わさずに僕に手を合わしてくれていました。それを見たときに、数百年の仏像の寿命の中で修復の担い手として選ばれた人だったのかなと思うと同時に、こんな中途半端な仕事をしていてはだめだなと思うようになりました。そのことがきっかけとなり、江戸時代の職人さんからみたら、まだまだ未熟だけれども自分が習ってきた技術、覚えたことはきちんと後世に伝えていこうという思いに変わりました。そのことが、今の僕の仕事の根底にあります。

寺田)少し、下世話な話ですが、京都の仏壇・仏具は全国的にも高いポジションにあり、それなりの値段が付きます。そして、京都にはいまだに、古くなった仏壇を車一台分の値段で修理するという方もいらっしゃいます。そうした仏壇屋さんにお聞きしますと、鹿児島の仏壇は安いよというお話でした。けれども、我々素人では、見ても良し悪しがわかりませんでした。何がどのように違うのか、やはり京都の仏壇の品質は高いのか、あるいはブランドがそうさせているのでしょうか。また、漆器でいうと輪島塗だとか、山中塗などが有名で、京都の漆器などはあまり耳にしませんが、その辺りを合わせてお聞きします。

清川)職人さんの塗に関しては京都がずば抜けていて、全国ナンバーワンです。そして、塗の工法が非常に繊細なのです。京漆器でも京仏壇でもそうですが、エッジが物凄く立つんですよね。それで、スキッとしています。それに対して輪島はもちろん素晴らしい技術力を持っているんだけれど、どちらかといえば、普段使いでも耐えられる耐久性を持っています。そういう差があります。どちらかといえば京都の場合は観賞用というか、御公家さん文化の中で生まれた塗なので、雑には扱えません。ものすごく、塗が薄いのです。薄い下地を作って、上塗りまでの10工程から12工程ありますが、あの薄さの中でその作業を行うことは手間暇がすごく掛かります。それと、乾燥させる時間が全く違いますね。それと、本当に姿がスキッとしていて全く違います。でも、京塗をしっかりとできる職人さんは、ほとんどいないですね。その薄い下地を作れる人がおられなくて、漆器に関しては、輪島の技術が高いとされています。100年、200年前の京塗のお弁当箱の修理を手掛けたりしますが、本当に見事です。今は、材料もないですし線を引く筆も無くなってしまいました。そういう意味では京塗は赤信号が点滅している状況です。次に、仏壇のお話ですが、鹿児島の川辺の仏壇は安いというのは、まだ序の口で、大半が外国製です。中国やベトナム製の仏壇が主流になってきているので、品質表示をするようになってくると思います。中国製やベトナム製が悪いとは思いませんが、作られている方たちが仏壇のことを全く知らない。家具を作っているのか何を作っているかわからずに作業をされているので、思い入れがないということが明確に現れてきます。それと、耐用年数の差があり、孫末代まで残す仏壇ではなく、今の家と一緒で、一代限りの仏壇となっていますので作り方が全く変わってきています。ということで、それらが価格に大きく反映され、頑固に昔からの工法でやっている職人さんの仕事は激減して、ほとんどの人が廃業を考えておられます。大量生産に準じた吹付の漆だとか、ケミカル系の漆でしているところの品物が、市場で動いていいます。

真下)修復できる職人さんは、どの位いらっしゃるのでしょうか?

清川)修復ができる職人さんは、おそらくノウハウさえ与えてあげれば沢山いらっしゃると思いますが、この場所でこれを使おう、ここはこうしようと工夫をできる方が少ないのです。

真下)若い人もいらっしゃるのですか?

清川)若い人も沢山います。僕がいつも現場で一緒になる高松の漆の学校の生徒さんたちが納期を間に合わすために応援で入ってきますが、作業を指示しても、「これ、僕習っていません」といいます。そういう人達にさらに作業の説明をしますが、失敗を怖がるというか、冒険をしないという傾向があります。褒められないことはチャレンジしない。だけど、知っていることは黙々とやってくれる子ばっかりなのです。やはり、先ほど、申し上げたように、プロデューサーの方やクリエーターの方が彼らをうまく使ってあげることが必要ではないかと思っています。僕らの年代以上の方で、徒弟制度の中で育った方たちは分かっていると思いますので、今から10年がその過渡期になるかと思います。若い子の中にもまじめで頑張り屋さんが沢山います。僕らより前向きな子が沢山いますが、その場面になると足が進まなくなります。

寺田)若い人たちが、清川さんのように修復ということにベースを置きながら、古いものを次へ繋いでいくバトンタッチのランナーの一人になっていただくようになっていくことが求められているかと思います。また、京都の漆の作家の中には、例えば、エレベーターのドアを漆で仕上げたりとか、大きな漆のオブジェを作って、高額で海外の方に購入していただくということなど、新しい漆の世界を作ろうとしておられる方もいらっしゃいます。今の若い人たちは、作家か職人かあるいはまた別の世界か、どのような方向性は持っておられるのでしょうか?

清川)たとえば、先ほどお見せしたテレビ番組を見た、北海道の14歳の不登校の子供が、うちの工房に来てくれたり、東京でも教室をやっていますが、ここにも不登校の子が来ます。お父さんやお母さんが、将来この子が一人で生きていけるだろうかと心配しておられるよりも、本人はもっと深刻なんだと思わされます。僕は果たして将来、どうなるんだろうという不安を抱えておられて、僕らみたい仕事を知ることによって、ひょっとしたら自分はモノづくりで生きていけるのではないだろうかという思いを持っていることを感じさせられます。若い方だからこそ、こういうモノづくりを時間をかけて覚えていって、自分が生きていくベースとしていくことを目指していこうとしています。そういうことが成立する周りの環境を如何にしたら整えることができるのかが大人たちの仕事だと思います。これからの時代は、本当に外国の方も沢山入ってこられるだろうし、日本人が日本人のために作る何かを持ち続けたいということが伝わってくれたらと思います。

寺田)とりわけ、金継ぎのような仕事では景色が大事ですが、文化財級の道具を扱いながら、それに景色を加えるなど、とても大変なことだと思いますが、その辺りは如何でしょうか?

清川)先ほど、動画の中で出てきた室町時代の壺は、長く仕事に取り掛かれていません。2年置いてあって、何時でもよいといわれていますが、相手は400年の歴史がありますから、単にアイデアでは済まされない何かを感じます。それと、金継ぎの大きな悩みとしては、僕は対面でしか品物を預からないのです。その人から、どういう形で残したいという思いを聞いてからでないと作業に掛かれません。単に金継ぎをお願いしますと言って送られてきても、メールでのやり取りが中心になるのですが、相手の方の思いを伺います。器を修理することも大事なんだけれども、その人の思いを残してあげることが大切だと思っています。3千円のコーヒーカップでしたが、ウチで15万円位かけて修理したこともあります。こうしてほしい、ああしてほしいという要望をお聞きする中で、実は、このカップは私の祖父が長年使っていたもので、どうしても孫末代まで残したいという思いをお持ちでした。お爺ちゃんのおかげで私たちはここまでこれたという思いが、そこには入っているということでしょうね。お金に換えられない何かを繋ぐ仕事かなと思います。

大島)最近、スポーツでいうと、卓球とかバトミントンが物凄く強くなり、人気が出てきています。あれは、プレーヤーが増えたことによって、ピラミッド全体が大きくなって頂点が押し上げられたということだと思います。そういう意味では沢山の担い手が出てくることがすごく大事だなと思うのです。例えば、市立芸術大学の漆芸科がありますが、そこで学んだ子たちとか、あるいは銅駝美術高等学校などで学んだ子たちは、いわゆる修復師などの職人の道に進まずに、アーティストを目指してしまっているのですか?

清川)作家志望は年々増えています。作家で成功されている方は、その作家の後ろには一流の職人さんがずらっと構えているんですよね。作家といえども一人の人間なので、全てのことを網羅できることは無いので、自分が抱えている職人が、自分が目指す表現に必要な一流の職人の良いところ取りをすることによって作家として表現する。それが作家のあるべき姿だと思います。作家活動もいいんだけれども、どうしても一人でやろうとしている子が多くて、それと、もっと基本の職人さんの技術も勉強することも必要だと思います。それが、作家として成功するための要因かもしれません。日本画にしても、狩野永徳の組織図を見せてもらったことがありますが、すごいピラミッドなんです。永徳は完全にプロデューサーですよね。一番下は、筆を洗う専門の職人さん、もちろん道具を修理をする職人さん、筆を作る職人さんは、上のほうなんです。中には群青といって、一生、群青を引くことが仕事の職人さんもいます。白緑、朱赤など全て色ごとに職人さんが存在しています。それぐらい分業化されていて一番上にクリエーターの永徳がいるという組織なのです。だから、永徳がすべて描いているわけではなく、短期間であれだけの作品を自分一人で描けるわけはなくて、ちゃんとしたチームを組んでいたということですよね。それが、永徳という作家なのです。宗達もそうですね。宗達の下には職人さんが沢山ついてくれていました。そして財力のあるスポンサーによって支えられていました。日本の工芸、どんなものでもそうだけど、一人で出てくることはありません。それを一人の作家の力だけで何とか表現しようとするのではなく、最初の取組というのは、職人さんの基本を学んでくれたら本当に良い作家になれると思います。最近、無条件でいいなと思う作家には出会っていません。昔のものには敵わないというのは、そうした組織体制の存在かもしれないですね。

寺田)そういう意味では、千家十職の中村宗哲さんなどもプロデューサーのような位置づけなのでしょうか?

清川)楽さんしかり、皆さんそうです。大きな看板を持っておられる方は、看板を守る仕事と、それを繋いでいく仕事、それと、クリエーターとしての仕事ですね。やっぱり、トップに立って職人さんたちを養成する。本来は、大きな看板のところがこういうことをどんどんとやってくれたらいいのですが。なかなか、そういう時代では無いので、僕たちのような町の職人たちがこうやって声を上げていく時代になったということです。

大島)先日、芸術大学の関係者の方に聞いて、深刻だなと思ったのが、芸術大学の学費が高いという問題です。このために多くの学生が奨学金を借りるのです、卒業すると奨学金を返さないといけない。そのために修行活動ができないというお話でした。企業に勤めて、毎月、サラリーがもらえるような仕事につかざるを得ないということでした。

清川)今、銅駝美術工芸高等学校の教授が平安堂に習いに来てもらっています。京都の有名料亭の板長さんなどもウチに来ていただいて、一緒に金継ぎをしています。金継ぎをすることで、お客様に日本文化を提供することができるということで来られています。東京の教室は、日本文化を発信するミニサロンを作ろうということで開催していますが、著名な方が来られるようになってきています。

寺田)漆器の器の取り扱いについてですが、食洗機で洗えるのでしょうか?

清川)今は、食洗機で洗える漆器がたくさんあります。さらに、電子レンジ対応の漆器もたくさん出てきています。生活状況に合わせて、様々な漆器ができていますが、漆器と漆という字がついていますが、やはり別物だと思います。例えば金継ぎも、僕が手掛けているものは着手から最低でも3か月はかかりますが、その日に持って帰れる金継ぎとなども出てきています。使う方がそれを使い分けできるかどうかが課題だと思います。毎日、緊張して触る漆器は大変だから普段使いの漆器はそれとして、ハレの日用の漆器を大切にしていただきたい。お正月だけは、特別なお重や特別な吸い物茶碗が出てきて正月を祝う。昔はそういう風にされていたんだけれども、今は、そういうことは全くなくなって、電子レンジで使えないものは使えないということになってしまっています。水屋や蔵の中に沢山の漆器が残っていると思いますが、それをもう一度出してきていただいて、何がどう違うか見ていただきたいと思います。先日、朝日の子供新聞が取材に来ていただいたときにお願いしました。今は、保育園、幼稚園で給食にプラスチックのお椀を使っていますが、一年の内、1か月でも1週間でもいいから木の器を使わせてあげて壊れることを教えてほしい。壊れることが分からないと修理の方に頭が向かない。これはいくら落としても大丈夫ということではなくて、木の器を使うときはこういう風に扱うんだということを大人たちが教えていかなくてはだめではないですかということをお願いして記事にしていただきました。食洗機OKのモノとこれはだめだというモノとを大人たちも勉強していただいて子供たちに伝えてほしいのです。そうすると子供さんたちが覚えていってくれます。水洗いしたらすぐに乾いた布巾で水けをふき取ってから収納するなど、昔の人がしていたことを残していきたいと思います。

 

<事務局長 挨拶>

本日は、師走のお忙しい中、第10回の西陣R倶楽部にご参加いただきまして本当にありがとうございました。また、清川様には、海外も含めてメディアの対応などで大変にお忙しくされている中で話題提供をいただき本当にありがとうございました。大変、勉強になりました。漆と聞いて、私が思い浮かぶ方は、小西美術工芸社の社長さんのデイビット・アトキンソンさんです。その方も寺社仏閣を修復するときに日本の漆を使うべきだと主張されていました。今日のお話を聞いて改めてそのように思いました。けれども、現状では日本産の漆は取れなくて希少であることも初めて知りましたが、国が何らかの方策を考えて実施するべきだと思いました。つい先日、旧大宮通の北大路を上がったところの大徳寺一久さんが茶室を建てられました。中村外二さんの施工で建てられて、私も呼んでいただいてお茶を頂戴したときに、私自身、文化に触れる機会をもっと増やさなければならないなと思うと同時に、もっと若い方が日本の文化や伝統に接しないと継承していけないなということをつくづく感じました。

清川さんには、西陣R倶楽部という同じ地域で活動してさせていただいている会だからこそ来ていただいたのだと思っています。今度、3月にも西陣R倶楽部でイベントをさせていただきたいなと思っていますので、是非、皆様のご協力とご参加をいただいてこの地域を盛り上げていけたら良いなと考えています。

簡単ではございますが、今後の皆様の一層のご協力とご活躍、そして清川様のご活躍を祈念申し上げ、中締めのご挨拶といたします。本日は、誠にありがとうございます。

 

<閉会>

最後に、清川様にもう一度拍手でお礼を申し上げ、この会を閉じたいと思います(拍手)。


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